【街かどに立つ標柱を探してみよう!】
江戸時代、この一帯は盛岡藩の同心の屋敷15軒が道の両側に続いていたことから、御同心丁あるいは御組丁と呼ばれていました。
御同心丁をはさんで道は大きく折れていますが、北から攻撃されたとき、敵が町に一直線に侵入するのを防ぐためと思われます。