史跡・文化財

のへじ祇園まつり日本遺産構成文化財・町指定無形民俗文化財                  (文化財名:野辺地の山車行事)

野辺地町の総鎮守・野辺地八幡宮の例祭の際に行われる山車行事。

北前船により、上方から伝わったとされる祭礼行事です。

祭礼は江戸時代から行われおり、山車の運行は明治時代から始まったとされています。

現在では、「のへじ祇園まつり」と称し、野辺地の夏まつりとして親しまれています。

 

 

野辺地の山車行列は、1台の船山車と数台の風流山車によって構成され、運行されています。

海路により伝わったとされる固定型の山車(作り替えない山車)と、陸路により伝わった南部地方の風流山車(毎年作り替える山車)がみられることから、海と陸の交流拠点であった野辺地ならではの山車まつりとなっています。

その他、神楽、祇園囃子、手踊りなどの芸能も見ることができます。

 

※まつりの内容・開催日については、「お知らせ」をご覧ください。

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日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間」

平成30年5月24日に野辺地町を含む27市町が、平成29年4月に日本遺産に認定された「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~」へ追加認定されました!また、令和元年5月20日には更に7市町が加わり全体で49市町となりました!

「日本遺産(Japan Heritage)」は地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。

 

基本情報
ストーリー
構成文化財一覧及び位置図
 

日本遺産についてや「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~」の詳細については文化庁ホームページや野辺地町も加盟している北前船日本遺産推進協議会ホームページを御覧ください。

北前船日本遺産推進協議会

文化庁ホームページ

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客船帳(町指定有形文化財)

江戸時代の野辺地湊からは南部盛岡藩の銅・大豆・鰯しめ粕などが積み出され、塩・木綿・日用雑貨などを積んだ多くの船が入船していました。

この客船帳は、船宿を営んでいた五十嵐家の顧客名簿で、江戸時代から明治初期まで代々書き継いできたものです。

野辺地湊には、どこから船が訪れていたか、どのような物資が運ばれてきたかなどが具体的に記載されている貴重な史料です。

歴史民俗資料館で展示されています。

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赤漆塗木鉢(国指定重要文化財)

螺鈿装飾の漆器は向田(18)遺跡から出土した縄文時代前期(およそ5千5百年前)の木製鉢です。コナラをくりぬいて作った器の内外面に赤漆が塗られ、突起には小さな巻貝のふたをはりつけて装飾したあとが見られます。長径が42㎝と、この時代の漆器では国内でも例をみない大きさです。

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ひとり立ちする土偶(愛称:縄文くらら)

高さ32㎝、縄文時代後期前半のものとされるこの土偶は、平成10年の発掘調査で黒色土の中から頭部・胴部・腰部・左脚・右脚の5つに割れた状態で出土しましたが、その後、欠けた部分がなく復元されました。

土偶の上半身と下半身を上下逆転して置き、その上から縄文時代後期前半の深鉢形土器3個体が出土しました。

この土器は附(つけたり)指定されています。
胴部を逆三角形につくる東北地方特有の板状土偶の形態をとり、これに短いながら前後に張り出した脚先を付した大型の立像土偶で、縄文時代後期における東北地方を代表する土偶として、造形的な特徴を良く示しています。

(土偶の出土した有戸鳥井平4遺跡は、野辺地町市街地から東北方4.5㎞のむつ湾に面した標高30mの海岸段丘上にあります。)

 

【縄文くららPRチラシ(PDFデータ)】

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藩境塚(通称・四ツ森)(県史跡)

江戸時代に南部領と津軽領の境界の目印として旧奥州街道沿いに築かれた土盛りの塚です。

当時藩境には、番所が設けられ通行人や物資の出入りを取り締まっていました。

塚の直径はおよそ10m、高さ3.5mほどで、南部・津軽それぞれ2基ずつあることから通称「四ツ森」と呼ばれています。

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野辺地戦争戦死者の墓所(県史跡)

1868年(明治元年)、幕府軍を支持する盛岡藩・八戸藩の南部軍と新政府軍を指示した弘前藩・黒石藩の津軽軍が野辺地で交戦し、津軽軍は29名、南部軍は6名の兵士が戦死しました。

墓石の4基には、戦死した津軽軍兵士27名の名前が刻まれています。

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水神宮

浜町地区にあるお社。

祭神は水波能売神で、浜町全体の氏神として崇敬されています。

文化5年(1808年)のある夜のこと、高田屋嘉兵衛が夢枕に苦しげに恨めしそうに立つ水神の夢を見、それをきっかけに五十嵐彦兵衛に水神宮建立を依頼し、水が再び湧き出したという言い伝えがあります。

当時は北前船などの飲料水に利用されたといわれています。

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御膳水と愛宕公園石段

古くから町民に親しまれてきた湧水。

明治天皇巡幸の際には、調理用に使われたことから「御膳水」と呼ばれるようになりました。

また、園内愛宕神社へと結ぶ階段はその昔、本町の道路に敷かれていた石を用いています。

この石は、北前船で香川県小豆島の土庄町から搬出された花崗岩です。

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戦没者の慰霊碑

愛宕公園、園路を登りきった頂上部分に戦没した当町出身者を慰霊する碑があります。向かって左は大東亜戦争戦没者、中央は日露戦争、右は日清戦争戦没者の各慰霊碑です。

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中市絶壁の句碑

明治時代に県内初の活版印刷による俳句同人誌を刊行するなど野辺地は俳句の盛んな地でした。俳人中市絶壁(謙三)は民俗学研究、町史の編纂などの数々の業績も残されました。業績を称え昭和47年10月7日に野辺地市街地が一望できる愛宕公園に「傘さげてみ堂をめぐる夕嵐」句碑が建立されました。

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馬門御番所跡

街かどに立つ標柱を探してみよう!

御番所は、江戸時代に盛岡藩によって設置され、人々や物資の出入を監視していました。建物は柵で厳重に囲われ役人が警護していました。この番所から西へ約2kmには南部領と津軽領との境界につくられた藩境塚があります。

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遠見番所跡

街かどに立つ標柱を探してみよう!

江戸時代、この場所には盛岡藩によって設置された遠見番所がありました。江戸幕府は外国との通商を禁止していたことから外国船の出入や通過を監視するために設けられた施設です。

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蔵町

街かどに立つ標柱を探してみよう!

江戸時代、この一帯には盛岡藩の銅蔵や大豆蔵、野辺地の商人の土蔵や板蔵があったことから蔵町と呼ばれています。蔵に納められた大豆・鰯しめ粕、銅などの南部領内の産物は、北前船によって大坂や北陸などの日本海航路上の湊に運ばれていきました。

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大砲台場跡

街かどに立つ標柱を探してみよう!

大砲台場は、盛岡藩によって安政3年(1865年)に築造され、外国の船に備え大砲が置かれていました。現在の新道は、この工事のために作られた道路です。明治元年(1868年)の戊辰戦争のとき、野辺地を艦砲射撃した新政府軍の船(陽春丸)に対し、藩ではこの台場から反撃しています。新政府軍の砲撃は50~60発で常光寺の大杉や各所に着弾しましたがいずれも爆裂はしなかったといわれます。一方台場からは、17~18発発射し帆柱と船体中央に2発命中し、陽春丸は慌てて退散しました。

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御同心丁(御組丁)

【街かどに立つ標柱を探してみよう!】

江戸時代、この一帯は盛岡藩の同心の屋敷15軒が道の両側に続いていたことから、御同心丁あるいは御組丁と呼ばれていました。

御同心丁をはさんで道は大きく折れていますが、北から攻撃されたとき、敵が町に一直線に侵入するのを防ぐためと思われます。

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最上徳内の妻 ふでの生家 

最上徳内〈宝暦4年(1754年)~天保7年(1836年)〉は、江戸時代の探検家で江戸幕府普請役。出羽国村山軍楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身です。徳内は、2回目の蝦夷地行きを松前藩に断られ、南部領野辺地に留まり2年間船頭新七の家で算術・読み書きを教えていました。その間に、廻船問屋を営む嶋屋清吉の娘(ふで)と結婚しました。徳内は82歳で亡くなるまで数々の著作を残しています。

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野辺地代官所跡

城内(現中央公民館地内)にありました。

代官はおおむね盛岡直参の藩士が任命され任期は通常2ヵ年程度でした。

元々の野辺地代官所の建築年代は明らかではありませんが、建物の配置図は残っています。

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石川啄木ゆかりの常光寺

常光寺の住職葛原対月は啄木の伯父にあたり、また啄木の父(一禎)・母(カツ)が一時、常光寺に身を寄せていたことから、啄木は3回常光寺を訪れています。

※石川啄木(いしかわ たくぼく) 1886年(明治19年) 2月20日~1912年(明治45年4月13日)は明治時代の歌人・詩人・評論家。本名は、石川一(はじめ)。

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旧大万旅館

旧旅館であったこの建物は、明治33年(1900年)に建てられた和洋折衷の貴重な近代和風建築です。

1988年にはフジテレビドラマ「飢餓海峡」の撮影場所として使用されました。

なお、建物内の見学は不可となっています。

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鳴子館坂

坂の上からは、町を一望できます。江戸時代には、この坂の下で幕府や藩の役人を出迎えたり、見送ったりしていたそうです。

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西光寺のしだれ桜(町指定天然記念物)と北前船乗組員の墓

しだれ桜は西光寺本堂への参道左側にあります。樹木医によれば樹齢は300年を超えており毎年春には美しい花をつけその風情ある姿が人々に親しまれています。また、西光寺墓地には、北前船での航行の際、海難で死亡された人達や野辺地に滞在中に病死された人達の墓石があり、現在までの調査では13基確認されています。

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一里塚(県史跡)

江戸日本橋を起点とし、三六町を一里として一里ごとに街道の両側に土を高く盛り、その上に樹木を植え、里程標としたものです。この一里塚は奥州街道上につくられたもので塚と塚の間には街道のあとが残されています。
※一町は約109.09m。

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石川啄木の歌碑

「潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇よ今年も咲けるや」の歌碑が建ったのは1962年(昭和37年)5月4日です。野辺地にゆかりのある啄木を記念しここに建立されました。

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弁慶の足跡

源義経は平泉から逃れ、青森県外ヶ浜町(旧三厩村)から北海道に渡ったのでは?という伝説がありますが、野辺地町でも芭蕉の句碑の土台石にあるくぼみは弁慶の足跡(左足)だという言い伝えがあります。

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松尾芭蕉の句碑(町指定有形文化財)

文政12年(1829年)に芭蕉を慕う野辺地の俳人たちによって建てられた碑。「花ざかり山は日ごろの朝ぼらけ」の句は、芭蕉が貞享5年(1688年)に桜の名所吉野山で詠んだものです。

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花鳥号銅像(町指定有形文化財)

明治9年(1876)の明治天皇の御巡幸にお供し、現在の役場地内にある行在所で亡くなった「花鳥」の銅像です。

昭和4年(1929)、その冥福を祈り愛宕公園中腹に建てられました。

銅像の制作者は、馬の彫刻家として知られる伊藤國男氏です。

現在では、愛宕公園のシンボルとなっています。

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本州最北にあるエドヒガン(町指定天然記念物)

御膳水に向かって左側にそびえ立つ、樹齢300年を越えるエドヒガンは樹の高さ18m、幹の太さは、約5.3mで地表約50cmの所で二つに分かれています。エドヒガンは、日本の本州・四国・九州や韓国南部・中国中部に広く分布する桜の一品種ですが、北東北には数が少なく野辺地にエドヒガンがあるという事は植物学上極めて貴重です。

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旧野村家住宅離れ『行在所』(国登録有形文化財・建造物)

現在の野辺地町役場敷地内にある行在所は、野村治三郎の別邸。

1876年(明治9年)に明治天皇が巡幸された時に、この別邸に御宿泊されました。

現在の建物は、1890年(明治23年)の大火で焼失後に、同一設計で再建されたものです。

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海中寺 木彫阿弥陀如来立像

木彫阿弥陀如来立像(県重宝)浄土宗の寺院、福聚山海中寺の本尊です。装飾的な衣の表現から鎌倉時代の制作と推定されています。海中寺は文化14年(1817年)に火災にあい当初の本尊も焼失したことから、大阪伝光寺の道場に祀られていた本像を迎えたと伝えられています。
(公開は3月19日~25日と11月6日~15日で見学希望者は事前に海中寺への申し込みが必要。)

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