町の概要

沿革

「野辺地」という地名がはじめて文献に見えるのは、南北朝時代の建武2年(1335)ですが、町内には寺ノ沢遺跡(縄文前期)、槻ノ木遺跡(縄文中期)、枇杷野遺跡(縄文後期)、陣場川原遺跡(縄文後期)などの遺跡が分布しており、これらのことから、すでに先史時代から人々がこの地に住んでいたことが知られています。
立地的に古くから交通の要衝として発展してきましたが、特に延宝年間(1673~1680)から明治の初年にかけて、豪商と呼ばれた地元の野村治三郎や野坂勘左衛門、さらには北陸の銭屋五兵衛などの千石船が往来し、日本海沿岸諸港並びに大阪、函館などと盛んに交易し、南部藩有数の商港として繁栄しました。
明治22年4月1日の市町村制施行によって野辺地村、馬門村、有戸村が合併して野辺地村となり、同30年8月28日には町制を施行し、平成29年に町制施行120周年を迎え、現在に至っています。

位置と地勢

[野辺地町の位置]

野辺地町の位置

青森県北部の下北半島と夏泊半島に挟まれた、むつ湾に沿った湾入域に位置しており、東南は東北町、東北は横浜町及び六ヶ所村、西は平内町と接しています。県庁所在地の青森市までは車で1時間ほどの距離にあります。
町の区域は、南北に15.8km、東西に12.5kmで、総面積は81.68km2となっています。

 

[地勢]

野辺地町全景

北をむつ湾に面し、南に八甲田連峰の山麓を背負い、東には緑豊かな丘陵が続いています。全体的に西高東低で、むつ湾からなだらかな平地が広がっています。
河川は、奥羽山脈を源とする野辺地川が町の中心部を北に向かって流れ、枇杷野川、与田川、二本木川などの支流と合流してむつ湾に注いでいます。これらの川は、流域の農地のかんがい用水の役割を果たしています。
 

町章/町の花・鳥・木

町章

野辺地町「町章」

野辺地の頭文字である「の」の字を表徴するとともに、躍進を連想させる波頭をあわせ図形化したもので、躍進、発展、団結を表現したものです。

(昭和36年11月24日制定)

 

 


町の花「はまなす」

野辺地町の花「はまなす」

海辺に咲く花「はまなす」は、丈は短いが、強い浜風に耐える様は、横に手を伸ばし、輪(和)を広げているようです。 歌人石川啄木が「潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜なすよ今年も咲けるや」と詠んだように、北のまち野辺地のイメージにあいます。

 

 

町の鳥「かもめ」

野辺地町の鳥「かもめ」

日本最古の灯台といわれる常夜燈を眼下に、水面を悠然と飛ぶ「かもめ」は、南部藩の商港として栄えた野辺地町にふさわしい鳥です。
「のへじ夏だよ 潮路のかもめ」と野辺地音頭にも歌われ、親しまれており、夏祭りの海上渡御に飛び交う「かもめ」は町のみなぎる活力を感じさせます。

 

 

町の木「さくら」

野辺地町の木「さくら」 当町が分布の北限にあたる公園内の「エドヒガン」、西光寺の「シダレザクラ」は、いずれも町指定天然記念物となっており、樹齢250年をかぞえ、毎年みごとな花をつけ、町のシンボルとなっています。

(平成9年8月28日制定)

町民憲章

私たちの町は、恵まれた自然と先人より受けついだ文化の香りたかい町です。
私たちは、心をあわせて「真実と友愛のあふれる明るく住みよい町」をつくるために、この憲章を定めます。

一. 私たちは 烏帽子岳のような 誇り高い文化と教育の町を つくります。
一. 私たちは 野辺地川のような 清い心と美しい町を まもります。
一. 私たちは 十符ヶ浦のような 大きい望みとゆたかな町を めざします。
一. 私たちは 愛宕山のような 温かい福祉と健康な町を きずきます。
一. 私たちは 人の和を大切にし、活力のみなぎる町づくりを すすめます。

(昭和54年8月28日制定)

名誉町民

第8代/野村治三郎(のむら じさぶろう)氏

窮民を助けることを使命とし、町の産業振興にも大いに貢献

野辺地町名誉町民:第8代/野村治三郎(のむら じさぶろう)氏 明治33年23歳の若さで8代目として家督を相続、野村家代々の「救民施与」の家訓を受継ぎ、ことあるごとに町に窮民に救援の手をさしのべ、その仁慈の徳行は数知れない。
また、野辺地町産馬組合長、農会長、蚕糸組合長、青森県農工銀行取締役、上北銀行、野村銀行頭取などの要職につき、工場誘致、養蚕の奨励、農林漁業の振興と野辺地町の産業の覚醒発展に大いに貢献した。
さらに、大正4年からは衆議院議員として政界へ進出し、4期国政へ、大正10年からは町議会議員として2期町政に参与した。
勲四等及び勲三等瑞宝章を受章。

 

松本彦次郎(まつもと ひこじろう)氏

国際的な視野に立ち、後進教育に生涯を捧げた偉大なる史学者

野辺地町名誉町民:松本彦次郎(まつもと ひこじろう)氏 明治36年第一高等学校を経て京都帝国大学法科に入学、その後東京帝国大学国史科に移り、明治41年に卒業、大正4年にはアメリカのシカゴ大学に留学、それからは慶応義塾大学を始めとして第六高等学校、東京文理科大学の教授、弘前大学、横浜国立大学の講師をつとめた。
学問上の著作は数多くあり、日本史学会を担う数多くの学者を育てた。野辺地町が生んだ他に誇りうる偉大な学者である。
昭和18年に従四位勲二等瑞宝章を受章。

 

 

鈴木逸太(すずき いった)氏

地域医療に重きを置き、青森県の保健衛生向上に大きく寄与

鈴木逸太(すずき いった)氏 明治42年仙台医学専門学校卒業、翌年野辺地町に診療所を開業。町の嘱託医として町民の診療にあたり、また、青森県医師会理事・顧問、上北郡医師会々長・顧問など多くの医療機関の要職につき、広く青森県の保健衛生の振興に尽くした。
特に学校医として、66年有余の長きにわたり児童生徒の衛生思想の普及、疾病の治療、保健衛生の管理向上に大きく貢献した。
昭和5年青森県知事表彰、昭和28年文化大臣賞、昭和34年藍綬褒章、昭和40年勲五等双光旭日章、昭和51年社会貢献者表彰、昭和52年青森県文化賞。

 

野村七録(のむら しちろく)氏

あふれる情熱で、陸奥湾ホタテ産業の隆盛を実現した水産の父

野辺地町名誉町民:野村七録(のむら しちろく)氏 大正5年に第一高等学校を経て、東京帝京大学理学科に入学、大正9年に同大学の大学院を卒業し、第一高等学校講師を始めとして、後に東北帝国大学教授、昭和33年から昭和37年まで弘前大学学長をつとめた。
水産学の基礎研究に情熱を燃やし、海洋生物学、養殖学では日本の権威者である。
特に水産学の研究分野の中で「陸奥湾産帆立貝の増殖研究」の諸論文は、今日、陸奥湾におけるホタテ貝隆盛の基礎を築いたものであり、学問研究を現実社会の向上のため尽くしたその功績は大なるものがある。
昭和10年勲六等瑞宝章、昭和13年勲五等瑞宝章、昭和14年勲四等瑞宝章、昭和17年従四位、昭和41年勲二等旭日重光章、昭和42年青森県褒賞。

 

江口隆哉(えぐち たかや)/本名 捨松(すてまつ)氏

旺盛な創作活動で、現代舞踊の定着と発展の礎を築いた芸術家

野辺地町名誉町民:江口隆哉(えぐち たかや)/本名 捨松(すてまつ)氏 町立城内小学校代用教員となるが、浪曲、狂言、義太夫、三味線、日本舞踊などに興味を持ち稽古に努め、昭和4年に高田雅夫・原せい子舞踊研究所に入所、内弟子として舞踊に専念する。
昭和6年宮操子氏と結婚し、舞踊研究のためドイツに渡り、ウィングマン舞踊学校に学び、昭和8年帰国。その後、舞踊研究所を開設し舞踊活動を続け、自主公演や合同公演等を通して旺盛な創作活動を展開するとともに、後進の指導育成にも尽力され、わが国における現代舞踊の定着と発展の基礎を築き上げ、外国のモダンダンスを日本独特の現代舞踊として芸術性を高めた。
昭和35年青森県褒賞、昭和41年紫綬褒章、昭和46年勲四等旭日小綬章、昭和52年従五位。

 

江口乙矢(えぐち おとや)/本名 紀世松(きせまつ)氏

兄の意志を継ぎ、現代舞踊を通じて郷土の発展に大きく貢献

野辺地町名誉町民:江口乙矢(えぐち おとや)/本名 紀世松(きせまつ)氏 兄江口隆哉・宮操子夫妻の門下生となり、厳しい修行を積みながら活発な舞踏活動を展開する。同門の研究生今村須美子氏と結婚、大阪において独立し、舞踏研究所を開設する。数多くの優れた作品を発表し激賞を浴び、さらには、現代舞踊という極めて難解な作品を日本の民話や地方の風俗などを取り入れ、簡素で判りやすい作品にして大衆的人気を得た。
また、旺盛な創作活動や後進の指導育成に尽力し、現代舞踊の定着と発展のため多大な貢献の果たした。
野辺地においては、郷土公演を上演するとともに、野辺地音頭に振り付けしその普及に努めるなど、郷土をこよなく愛した。
昭和48年青森県褒賞、昭和54年紫綬褒章、昭和60年勲四等旭日小

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